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エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア (1972-) : ウィキペディア日本語版
エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア (1972-)

エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアEmanuele Filiberto di Savoia, 1972年6月22日 - )は、イタリア王国の旧王家サヴォイア家の一員で、現当主の元王太子ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアの長男、最後の国王ウンベルト2世の孫である。イタリアの王政廃止に伴うサヴォイア家の国外追放によって祖父と父が亡命していたスイスジュネーヴで生まれた〔C.E.D.R.E. ''Les Manuscrits du C.E.D.R.E.: Le Royaume d'Italie, volume I.'' Paris, 1992, pp. 89-93. French. ISSN 0993-3964.〕。
2002年、法律改正によって父と共に帰国を果たし、ヴェネツィア公及びピエモンテ公の爵位・王位請求者として行動している。ピエモンテ=ヴェネツィア公財団理事。
== 経歴 ==

=== 生い立ち ===
スイス連邦ジュネーヴ州ジュネーヴで最後のイタリア王太子ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアと、スキー選手のの長男として生まれる。母はスイス人資産家レネ・リコルフィ・ドーリアの子女であったものの貴族ではなく、貴賤結婚であったことから、一族の反対を押し切っての結婚と出産となった。父からはイタリア王太子の称号であるピエモンテ公、かつてフランス皇帝及びイタリア王の地位にあったナポレオンが創始したヴェネツィア公(''Principe di Venezia''、イタリア語版)の二つの爵位を叙任された。父ヴィットーリオはフィリベルトの誕生時にウンベルト2世が孫の爵位を承認したとしているが、異論もある。
父ヴィットーリオの逮捕などもあって、サヴォイア家はカリニャーノ派アオスタ派に分かれて内紛状態に陥っている〔Enache, Nicolas. ''La Descendance de Marie-Therese de Habsburg''. ICC, Paris, 1996. p.213〕。多くの貴族家は、ウンベルト2世が廃嫡までしていない以上、サリカ法に基づいて先代君主の長男の長男であるエマヌエーレ・フィリベルトの継承権を認めている〔Enache, Nicolas. ''La Descendance de Marie-Therese de Habsburg''. ICC, Paris, 1996. p.204〕。現在、サヴォイア公の称号使用を巡る裁判が行われている。フィリベルトは父を支持するカリニャーノ派の当主後継者として十分な教育を受け、ル・ロゼを経てジュネーヴ大学で建築を専攻していた〔Biografia ufficiale di Emanuele Filiberto 〕。一時は建築学者としての道を考えたとされるが、卒業後は銀行家として投資業などに従事した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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